コラム

[2013/11/05] 第64回 [連載]メディアの客観報道と事実

メディア

今回はメディアなど情報の質に着目し、
 ・客観的な情報(材料)の抽出
 ・事象や事実が表現できる範囲
を考えてみたいと思います。

そもそもその情報によって判断すると考えるのではなく、あくまでも判断するのは常に自分であり、情報は単なる材料である。このように考えた際に、重要となるのはその情報の事実認識ではないかと考えています。思考論理の基礎となるのは正確性であり、事実を記録し描写する、そして伝えるの3つの過程を踏まえた言語表現が必要となります。

それでは、発生した事象についての客観的な事実とは、その材料である情報のなかから結果(=事象)を正しく抽出するためには、どのような点に留意すべきなのでしょうか。そして、事象や事実が示すものとは、どのようなことでしょうか。

客観報道と事実

日本国外で事故や災害が発生した際に、「日本大使館によると、救助された人や死者の中に日本人は含まれていません」などと、メディアから報道されることがあります。小学生の頃にこの報道の内容が気になって、母親に質問したことがありました。

私:「なぜ、日本人はって、日本人だけを特別扱いしているの?」
母:「日本の人を相手に報道してるから、優先して伝えてくれているのよ」
私:「人の命は平等なのに、日本人だけを特別扱いするのはおかしいよね」
母:「そうだね、そうかもしれないね」

このようなメディアの報道はよく耳にする表現であり、特に問題のないようにも感じられます。しかし、子供心にも "日本人は" と強調している理由が、とても不明瞭に感じたことを思い出します。

日本国内で報道していることから、日本人が興味を示し優先すべきことを考えてこのように報道しているのでしょう。しかし、日本国内にも日本人以外の方が生活し安否を気遣う人もいる、とは考えないのでしょうか。すべての人の考えや気持ちをくみとることができないとしたら、優先順位であり数の論理から、そのように定義することがより良い選択と考えられているのでしょう。

相手が何を知りたくて、どのようなことを気にしているのだろうか。そのようなことを突き詰めていくと、客観報道の定義はとても曖昧になります。

事実のなかからどの場面の材料を切り出して伝達するかによって、事実に対する重みや原因などが湾曲されることもあります。人の興味を切り出すことが報道としての優先度とすれば、ある特定の視野や視点にそった事実や大衆の興味であり、公益的な公平性を欠くことでもあると考えられます。

不足した情報から得られた事実、ある特定の部分や興味によって切り出した事実や表面的な事象では、十分条件であっても必要条件とはなりません。報道の客観性を追求するならば、相手が何を求めているかではなく、純粋に最大限の事実または事象を伝達しようと考えるべきではないでしょうか。正しい結論を導くためには、最大限の正しい事実を収集することが必要なのです。

あくまでも事実は結果

それでは、最大限の事実を収集することが、最大限の信ぴょう性を保障することなのでしょうか。客観的な事実とは常に局所的かつ表面的な事象であり、信ぴょう性とはあくまでもその情報の範囲内を担保するもの、ということを留意すべきです。

よって、最大限に事実を抽出できたとしても、その背景にある真理や問題の本質をひも解いたのではなく、あくまでも結果であり、そこから思考する際の判断の根拠でしかないということを、常に意識すべきではと思います。

それらの事実または事象を根拠に、その問題の本質をひも解くための適切な仮説をいかに思考することができるか、そしてその仮説に対する事実や事象を再び抽出して実証する。このような能力が、問われていると思います。<s.o>

§今回は情報の質に着目し、客観的な事実の抽出、事実の表現範囲について考えてみました。次回は「情報の伝達と認知」をテーマに、情報に対する人の認知と働きについて、考えてみたいと思います。(次回は、2013年12月2日掲載予定)


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