コラム

[2009/01/05] 第6回 『北の鉄人』の復活に期待 Vol.1

一年を通じて一番寒い季節が近づいてきました。その寒い時期にクライマックスを迎えるラグビー。今回はこのラグビーというスポーツで一時代を築いた『北の鉄人』について触れてみようと思います。前編では過去の栄光を中心に、後編ではクラブチームとしての再出発についてと2回に渡って書きたいと思います。

私がラグビーというスポーツに興味を抱き始めたのは中学生のときです。昭和54年から昭和60年までの間、ラグビー日本選手権大会で当時前人未到の7連覇を遂げた新日鉄釜石ラグビー部の活躍に刺激を受けたからです。「炎(赤)のジャージ」を身に纏い、新日鉄の業績悪化で苦しい中、地元の期待を背負い勝ち続けるその姿から「北の鉄人」と称され、1月15日に行われる日本選手権で国立競技場に翻る大漁旗は、晴れ着姿とともに成人の日の風物詩とまで言われました(当時、成人の日は1月15日でした)。

私はその新日鉄釜石のある岩手県釜石市で生まれ育ちました。中学、高校と野球をやっていましたが、環境的にラグビーを好きになったのは言うまでもありません。当時、通学していた高校は新日鉄釜石ラグビー部が練習するグランドのすぐ隣にありましたから、ときどき練習を見学していました。体育の授業ではたびたびラグビーをやったり、当時は3年生になると男子は放課後に文系のクラスと理系のクラスに分かれて試合をやったり。他の地域の高校では考えられない光景だったかもしれません。私は大柄な体格でしたので、いつもフォワードでスクラムを組んでいました。ポジションでいうとプロップとかロックです。普段ラグビーをやっていない人がスクラムを組むと翌日、首や肩の周辺が筋肉痛のようになって首を回せないんです(苦笑)。そして、高校卒業直後の昭和55年春からは東京で生活していましたので、新日鉄釜石のV7の間に3回ほど国立競技場で観戦しました。1月に野外スタンドで座っての応援は東京でも寒く、カイロを身につけ日本酒を飲みながら応援したことを思い出します。

当時のメンバーは松尾雄治、森重隆という明治大学出身のスタープレーヤーの存在が大きかったのは言うまでもありませんが、釜石の魅力はフォワードにはひとりとして大学出身の選手がおらず、チーム全体でもほとんどが高校時代は無名の地方(東北)出身者だったところだと思います。エリート集団にアカ抜けない田舎者たちが立ち向かって行って、勝利するのですから観ていておもしろいというか痛快でした。今のプロ野球界でいうと巨人と楽天が日本シリーズで戦って、楽天が 4連勝したときの気持ちと似ているのかもしれません。

しかし、鉄人にも落陽は訪れます。昭和61年以降、社会人リーグで優勝争いに加わることはなく、平成6年からは7年連続で下部リーグとの入れ替え戦に臨み、「裏V7」という不名誉な称号をささやかれていました。平成13年2月、8年連続の入れ替え戦。新日鉄釜石ラグビー部はこの試合を最後に解散し、クラブチームへの移行が決まっていました。結果は33対34の1点差での敗戦。これにより、リーグからの陥落とともに41年の歴史に幕を閉じました。 <M.K>

後編へ続く ~


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