知見(knowledge)

「言語表現と文章能力」  大谷智史

ことば

日本人(同じ民族)の中で、日本語(同一言語)での会話に慣れてしまうと、特別な情報を提供あるいは共有しなくても会話が成立したり、具体的な言葉を多用しなくても、伝えたいことが伝わる機会が多いと感じます。

しかし、いつものように会話をしていても、伝える相手が変わった途端に、言いたいことや気持ちがなかなか伝わらないと感じることもあります。会話がかみ合っていないような違和感を覚えたり、会話が成立していないとさえ感じることがあります。

日本語(同一言語)で会話していても、言いたいことや気持ちが、伝わるときと伝わらないときがある。社会環境の変化などによって、従来の価値観や考え方が変化しているのではと、感じることもあります。

今回は、言語表現の変化(進化)と、母国語(言語)を正しく扱うことの大切さについて、考えてみたいと思います。

言語表現の選択と変化(進化)

外国語学校への通学や教材の購入など、英語などの他国語を学んだり接する機会が増えています。他国語を学ぶのならば、その国の方々の表現の方法や癖(思想や習慣)を知ることも、大切な点ではないかと感じています。

欧米の方の会話では、まず最初に Yes か No があって、それからなぜそうなのかを説明する習慣があります。日本的な思考回路で文章を構成してしまうと前置きが長くなり、なかなか結論には到達しません。特に欧米の方などは最初に結論を伝えると思い聞き始めては、頭の中で内容を記憶したり組み替えているうちに困惑してしまい、結局は何を言いたいのかを理解できません。

その人の生活様式や育まれた環境によっては、同じ内容を伝えようとしても、文章の構成や言語表現が異なるということです。

母国語か他国語であるかにかかわらず、言葉や言葉づかいまたは表現の方法は、その国や民族といった人々の考え方や姿勢を映し出す(映し出している)ものです。日本語の漢字から平仮名を生んだのは流行や文化であり、女子高生などが頻繁に使用するギャル語もまた、文化発信による変化(進化)によるものです。

言葉の変遷には、そのときの環境や文化が大きくかかわっています。どのように伝えたいかといった、人の感情や気持ちあるいは考え方が、言葉や言葉づかいを変化(進化)させます。そのときにそのような環境が必要としたからこそ、特定の言語表現が生まれます。そして選択され続けては、それが標準へと変移します。

あくまでも言葉とは、気持ちや感情を伝えるための手段です。そして母国語である日本語もまた、単なる手段の一つです。その人の人格を形成し構成している環境の変化によって、会話における正しい(標準の)言葉や言葉づかいの解釈が、変化するということです。

会話の習慣化と文章能力

伝えたい内容は同じであっても、人それぞれの言語表現の方法があり違いもあります。しかし、正しく伝えようとするならば、伝えたいことは何かを明確にしていなければ伝わりません。同じ環境に長く過ごしていると、間違った言葉や言葉づかいでも、何となく伝わってしまいます。そのことで、自分が伝えたいことは何かを整理していなくても、会話は成立し生活できてしまいます。

会話を考えるうえでは、もし英語などの他国語を学びたいと考えるならば、まずは母国語(言語)を正しく扱えることが、大切ではないかと考えています。

会話の内容に主語がない、修飾語ばかりで述語(結論)が盛り込まれていない。あるいは、気持ちや思いなどの感情を並べ立てるだけで、どうしたいのかを説明していない。そもそも自分は、何を伝えたいのかの正しい理解と整理が、会話にとっては基本的なことであり、とても重要なことです。

頭に浮かんだ言葉をそのまま垂れ流して話したり、説明に対する説明を連鎖的に話してしまうことが、癖であり習慣化している方もいます。前置きが長くなる、さらには要点が見えなくなる原因ともなりますので、留意すべき点です。

親しい友人や気心が知れた方との会話に慣れ親しむと、伝える内容を省略したり言葉づかいが多少間違っていても、ある程度は通用してしまうことがあります。このようなことが習慣化することで、どのような言葉(単語)を組み立てて表現すればより伝わるかなどの考えが、おろそかになります。

いつ、どこで、誰が、何を、どのように、そしてなぜか。あらためて慣行の5W1Hで整理してみると、自分が伝えたい内容や表現が、いかに乏しいかと恥ずかしくなることがあります。「結論から先に言う」ことは、論理的な構成だけの問題ならば、話す順序を変えるだけで解決します。

誰に対して何を伝えたいのかなど、自分が伝えたい内容を論理的に構成できなければ、母国語か他国語であるかにかかわらず、「言葉」そのものを正しく扱えないということであり、共通の言語翻訳は難しいということです。(2014年4月12日)

§今回は言語表現と文章能力をテーマに、言語表現の変化(進化)と母国語(言語)を正しく扱うことの大切さについて考えてみました。


「多様性とものさし」  大谷智史

多様性

自分や相手を理解するには、育まれた環境や慣習あるいは文化そして性格を知ることが、大切ではないかと考えています。

内面に存在する慣習や文化を知ることによって、そのような考えに至ったきっかけを理解するうえで、参考になることがあります。

どのような時には、どのようなことを考えようとするのか。なぜそのように考え、そのように思うのだろうか。なぜそのように思えるのかを、自分の方向からではなく相手の方向から見て考えようとする姿勢を生むことは、大切ではないかと考えています

それでは、育まれた環境や慣習あるいは文化そして性格が異なった方々と、どのような姿勢で接するべきなのでしょうか。多様性を大切にするうえで、どのようなことに留意すべきなのでしょうか。

今回は、前回の記事で述べた慣習や文化について、多様性の視点で考えてみたいと思います。

きっと同じはず

日本人は比較的に、信じやすいと言われています。きっとそれは島国で育った単一民族であることに、起因するのではないかと考えています。

きっとみんなが同じことを考え、理解してもらえるはずである。そんな思いが根底にあり、自分と同じように考えているから、裏切ったりはしないし嘘などはつくはずがない。季節や風土が同じような環境や地域で生まれ成長する過程に、そのような相手を信頼する気持ちが、自然と備わってしまうのではと思います。

理性や良識そして考え方は、基本的にはみんなが同じはずとの思いがあり、きっと話さなくてもわかるはずとの信頼であり思い込みが、思考の前提となっていることが多いと感じています。

このようなことから、だからどうして欲しいかの具体的なアクションよりも、自分の置かれている心境や思いなどの気持ちや姿勢を、伝えることに努力します。それが伝わりさえすれば、同じ思いを感じてくれる人ならば、何をどうしたいかの気持ちはおのずと同じであり、きっとわかってくれるはず。

そのため、自然に同じ考えや気持ちが通じ合う仲間とだけ集まり、自分の居心地が良い居場所を求めあったりします。自分とは意見や考え方が異なっていると、他の意見や主張を聞くことはせずに、行動をともにするのをやめてしまうこともあります。

きっと違うはず

きっと自分とは価値観が違う、そう考えられるならば、きっと相手はわからないはずだし、理解することは難しいはず。そう思えることが、出発点となります。

自分の考えが間違っているかもしれない。そう考えて、自分の考えや主義主張を相手に積極的に伝える努力をします。相違している点があるのなら溝を埋める必要があり、相手と議論して解消しなければと思えるようになることが、大切ではないでしょうか。

異なった意見や否定的な考えを伝えると、考え方ではなく人として否定されたと、勘違いしているのではないかと感じることがあります。不協和音は組織やコミュニティの協調性を失う要因となるため、違う意見や異なった考えは極力排除しようとします。そのため、考えが一致するように調整をしたり、同じ方向に向かうよう軌道修正され、同調するような意見や考えに導かれることもあります。

多種多様な考えや文化、価値観や哲学があって良いはずです。人はその人の考えや価値観で生きることが良いのであって、生き方そのものに正解はありません。 自分と同じか違うのかを意識するのではなく、そんな考えもあるしきっとそのような考えがあっても良い。そう思えるようにならなくては、きっと成長することはありません。

いろいろな意見や考えを尊重し多様性を大切にするうえでは、目標や目的などの統一した完了基準の認識を合わせることが、大切ではないかと考えています。

自分が正しいと思えるなら、指示を仰ぐことなどはせずに各自の判断で積極的に行動する。このような行動を要求された場合には、目的が理解されたうえでの行動なのか、完了基準は一致しているのかがとても重要になります。それが満たされていなければ、あるいは意識されていなければ、勝手に正しいと思い込んでしまった利己的で身勝手な行動でしかありません。

そのためにも相手の意見や考えを確認し、自分の考えや意見を積極的に伝えて議論する。お互いの考えや意識にずれがあるならば、それらを埋めあう努力が必要となります。自分と同じか違うのかではなく、どこに「ものさし」(目的や完了基準)を置き、何が正しくて間違っているのかを、正しく判断するための姿勢が大切ではと思います。(2014年3月3日)

§今回は慣習と文化を多様性の視点をテーマに、多様性を肯定する姿勢と共通の「ものさし」の大切さを考えてみました。(次回は、2014年4月12日掲載予定)


「言語の表現力と慣習や文化」  大谷智史

各国々の言語

日本語という言語には、表現が難しいあるいはできない、いくつかの言葉があります。標準語や各地方には方言といった、各地に伝わる表現方法や言葉づかいもあります。

今流行の表現からは「おもてなし」を頭に浮かべる方も多いかと思いますが、日本人がこよなく愛用する表現であり最も一般的で代表的な言葉と言えば、「よろしくお願いします」ではないでしょうか。

「よろしく」と抽象的に表現することで、依頼する方も依頼された方のどちらにもあたりさわりがなく、どのような状況下でも使用できる、とても便利でしかも丁寧な表現ではないかと思います。

しかし、このような日本語の気持ちや表現は、英語などの他国語に翻訳することが難しいと言われています。どのようなことが隠され、そしてどのようなことが考えられるのでしょうか。

抽象的で曖昧な表現

ラテン文字(ローマ字)を使用する言語は、全体的に1文字あたりの情報量も少なく、日本語の1文字あたりの情報量は、中国語に次いで2番目に多い言語であることがわかっています。ある研究者は、日本語140文字の文章を英語に翻訳したところ、約2倍近くの平均260文字になったと発表しました。このことを言い換えるならば、英語140文字の表現能力は、日本語の約75文字分の情報量しかないことになります。

「よろしく」と表現する言葉には多種多様な表現が隠されており、伝える情報量も多いのではないかと考えています。自らの感情や気持ちを伝えるとともに、相手に対する配慮や気遣いを同時に伝えようとします。

他国語となる英語に例えるならば、初対面の方との最初のあいさつの場面では Nice to meet you.となりますし、具体的な用件をお願いする場面ならば Thank you.で良いのではと思います。また、その用件が取引先に対する仕事の依頼であるならば、I am waiting for good news.が適切な表現ではないかと思います。

「よろしくお願いします」をあえて直訳するならば、I beg your kindness.(私はあなたの親切を望みます)が最も近い表現ではないかと思います。しかし、丁寧で謙遜しすぎる表現となるため、ネイティブな英語圏では使うことが少ないようです。

英語圏の方にとっては、具体的な関係性を確立した間柄でもなく、具体的に何かを依頼したりされたりする関係はないのに、「これからも、何かとあなたの親切を望んでいます」と伝わります。そして「よろしく」と相手に判断を委ねることで、その結果が本人の意に添わないことがあることをあえて理解したうえでお願いする表現となり、とても厚かましいお願いと解釈されてしまうのです。

慣習や文化を理解する

新入社員が「よろしくお願いします」と伝えることが、日本では一般的かつ日常的な風景であったとしても、具体的な依頼ではない場面においてそのように伝える文化は、英語圏には存在していないのだと思います。

日本には気持ちや感情を直接的に伝えることよりも、奥ゆかしく謙遜しながら伝えたり表現することを美化する文化があります。気持ちや感情を伝えるために、相手に対する言葉づかいや言葉を使い分けて、ニュアンスやトーンを変えることも多いのではと思います。しかし、そのような点には気を遣いながら、相手には何をして欲しいのか具体的に何を伝えたいのかを、気にする方は少ないのではと感じています。

具体的に依頼した仕事について評価したり感謝の意を表すのなら、その旨を述べれば良いのではと思います。英語で表現するならば thank you, good job, be careful.など、何に対する伝達であるかを具体的に表現します。その場の雰囲気を変えるため、あるいは無視した礼儀を知らないと思われることを避けるために、「お疲れさま」と表現する文化はそもそもありません。

先に職場から帰宅する際に、黙々と一生懸命に仕事をしている方たちに話しかけたり声をかけてあいさつすることに、抵抗を感じることがあります。労をねぎらうなどの配慮と考えていますが、仕事に集中されている方にとっての「お先に失礼します」や「お疲れさま」は、時には邪魔になったりノイズに感じる方もいるのではと考えるからです。

これらの考え方などは、育まれた環境や慣習あるいは文化に依存します。自らの慣習や文化あるいは性格を知ることは、とても重要ではないかと考えています。

各国々の人たちの文化を知ることで、なぜそのように考えているのか、またはその考えに至ったのかを理解することができます。それらを知らなければ、言葉づかいを変えたり言語や手段そのものを変えてみたところで、思うようには伝わらないのではないでしょうか。(2014年2月3日)

§今回は言語の表現力と慣習や文化をテーマに、言語を扱う上での育まれた環境や慣習あるいは文化を知ることの大切さを考えてみました。(次回は、2014年3月3日掲載予定)


「客観(形式)と主観(実質)」  大谷智史

思考回路

これまでの記事では、

・情報の信ぴょう性(情報に対する向き合い方と姿勢)
・情報の客観性(客観的な事実の抽出と表現範囲)
・情報の伝達と認知(情報に含まれる意味と伝達手段)

をテーマに、情報の取り扱い方の危うさ、情報の正確性の保障と担保の難しさなどを考えてきました。

そして、ことば(情報)に含まれる意味には表意と推意の2つがあり、言葉で表せるものと表せないものがある。その情報伝達は、相手への情報との関連性が保障されるから労力を使って解釈しようとする、よって解釈する側の推論能力によってコミュニケーションが成立するから、相手との関係性を明確にすることが大切である。このようなことも考えてきました。

今回は「客観(形式)と主観(実質)」の違いと「こと(目的)」と「もの(手段)」を意識する思考回路が、いかに大切であり興味深いことであるかを考えてみたいと思います。

客観(形式)と主観(実質)

何となく理解できた、あるいは感覚的にはわかった。このような人の主観や思いで理解したことは、とても曖昧で正確性の低い、ある意味では正しくないものと分類される傾向にあります。主観的で言語化できない、あるいは言語化しても説明が不可能な知識(主観)である暗黙知は、ある特定の人が特有に理解した体感的なものであり、言語化や具現化が難しく、誰もが理解できるものではないと定義されるからです。

しかし、誰もが同じように理解が得られ、言語化しても説明が可能な客観的で科学的な知識(客観)である形式知こそが、正しい情報という偏見やバイアスがあまりにも強くなると、形式化されデジタル化された情報はより正確性が高く有効性があると錯覚したり、アナログなものはデジタル化し、より客観性を高めた論理や形式知を求めることは、正しい情報や答えを導く正攻法であると考えがちです。

前回の記事では、「嫌よ嫌よも好きのうち」の情報には、表意では嫌と否定しておきながら、推意では好きと反対のことを伝えようとする。客観では嫌いと意思表示しながら、好きという主観を伝えようとする例えであると述べました。

主観である好きという思いがどの程度であるか、その気持ちを伝えるためであり表現する手段に嫌いと意思表示した思いは、誰もが同じように理解が得られるものではありません。しかし、相手との関係性が確立され、その情報や他の情報によって関連性が保障される人ならば、認知効果は強くなり、感覚的で曖昧な感情によって、適切に情報が伝達するということです。

客観(形式)と主観(実質)のどちらが正しいかは重要ではなく、相互補完によって双方が均衡する情報ということです。

こと(目的)ともの(手段)

このケースでは、言語という記号(手段)を利用し、嫌いという言葉づかいや表現(手段)を選択することで、好きという思い(目的)を伝えようとしています。客観の嫌いという言葉づかいや表現の意思表示は「もの(手段)」であり、主観である好きという思いを伝える「こと(目的)」のための、あくまでも手段ということです。別の言葉づかいや表現(手段)を選択したり、全く異なる手段で好きという思い(目的)を伝えることもできますが、あえて主観を直接的に伝えないという手段を選択していると理解すべきです。

ここであなたにとって食事とはどのようなものですかと、ある2人の方に質問したと仮定します。

ある方は「生きていくためであり、生存のためです」と答え、他の方は「生きている幸せや喜びを感じるためです」と答えたとします。食事が生存のためと考えるならば、食物の摂取量やカロリーなどの栄養素のバランスが重要となり、生きる幸せや喜びを感じるためならば、食物の摂取量だけではなく、おいしさの質や誰とその時間を過ごすかなどが重要となるかもしれませんし、必ずしも食事という手段には限らないとも考えられます。

どのような「こと(目的)」のために、食事という行為を「もの(手段)」として選択しているのか。「こと(目的)」をどのように定義しているかの、その人の考え方や定義の相違によって回答が異なります。よって、その情報のなかに内在している「こと(目的)」を理解することが重要であり、誤って「もの(手段)」を目的と抽出してしまうと、正しい情報や答えを導くことは難しいということです。

いずれにしても、その背景には人の主観、思いや感情があるという考え方はとても重要です。人の主観や思いが先に生まれて、そのためにはどのようにするかの「知る(知識)」が始まるのだと思います。

それを知るために材料である情報を集めて、人の思い(暗黙知)と客観(形式知)をスパイラルに変換するプロセスを経て、情報の分類と整理、そして目的を理解して手段を具体化するプロセスに有効な情報(知識)が生み出されます。主観と客観、信念と理性、芸術と技術といった暗黙知(主観)と形式知(客観)の相互補完であり、それらのバランスが大切なのだと思います。(2014年1月13日)

§今回は客観(形式)と主観(実質)をテーマに、その双方の相互関係と「こと(目的)」と「もの(手段)」を意識する思考回路の大切さを考えてみました。(次回は、2014年2月3日掲載予定)


「情報の伝達と認知」  大谷智史

会話

今回は「情報の伝達と認知」をテーマに、情報に対する人の認知と働きについて、考えてみたいと思います

情報は人にどのように伝達し認知されるのでしょうか。それを考えようとするならば、まず「ことばはなぜ通じるのか」という疑問に、哲学的アプローチで考える必要があります。

人間の認知の傾向とことばの関係を探ろうとするならば、認知語用論の1つである関連性理論を学ぶことで、興味深いことが見えてきます。さらに、言語という記号(手段)が持つ限界や、話し手と聞き手の関係性がいかに重要であるかを理解できます。

私たちは言語という記号(手段)を持ってしまったことで、時として伝わりにくい方法を使用し、より複雑な意味を伝達する手段を選択しているのではないでしょうか。

関連性と認知効果

言語学の研究分野の中には、ことばの表面的(言語内)意味を対象とする意味論と、ことばの裏面的(言語外)意味を研究対象とする語用論の2つが存在しています。

関連性理論とは、会話の推意(裏面的な意味)を研究する学問である語用論の関係性の原理を基礎とした、人間の認知の傾向を表したものです。

ことばが通じるという現象は、ただお互いが同じ言語という記号(手段)を使っているからだけでなく、話し手が関連性(聞き手に関係する関連性のある内容)を保障してくれるので聞き手は解釈しようとする。人間の認知という脳の働きは、認知効果があるから労力を使って認知しようとするのであり、伝達行為にはその労力に見合った認知効果が保障されているからこそ、その伝達された情報を受信しようとする、だから「通じる」というのがこの関連性理論の考え方です。

聞き手に最適な関連性や興味のある情報が担保されると、認知効果は強くなります。解釈に労力が必要となればなるほど、もっと適切なことばがあるのにどうしても思いつかない場合には、最大な認知効果は得られないということです。

あくまでもことばの解釈とは聞き手の推論能力に依存するもので、言語という記号(手段)を解読し、話し手の意図を推論することによって、人間のコミュニケーションが成り立つということです。

関係性と記号(手段)

ことばには裏表があり、話し手の表意(文の意味)と推意(話し手の意味)が混在しています。

少し古いフレーズとなりますが、「嫌よ嫌よも好きのうち」はその代表的なもので、表意では嫌と否定しておきながら、推意では好きと反対のことを伝えようとします。関連性理論にもとづくならば、この場合は解釈には労力がとても必要となり、特定の関係性のある相手(聞き手)にしか認知されず、認知効果は弱いとされます。

よって、会話環境において表意とその推意を解釈するためには、話し手や聞き手といった互いの立場や役割が明確に認知されていることが、とても重要なのではと考えています。ある情報がどのように伝達されて利用されるかの意図が互いに明らかになっているからこそ、その情報を適切に活用したり、解釈することができるのではないでしょうか。

さらに、言語という記号(手段)を使うことで、ニュアンスが伝わらない、何と言ったら良いのだろうなどと困惑することもあります。

古代エジプトのヒエログリフ(聖刻文字)となる象形文字は、絵文字の起源とも考えられています。ソーシャルメディアなどにみられるスタンプなどは、表意と推意を合体したとても適切な伝達手段ではないかと感じています。伝達する情報を単純化しより削いでいくことで、解釈の労力をより少なくする。互いの関係性が明確になっていれば、言語ではなく象形文字のような記号を手段とすることでも、最適な認知効果を得ることができるということではないでしょうか。

どのような手段であるかではなく、知りたいあるいは知ろうとすることが、いかに大切なのではと思います。(2013年12月2日)

§今回は情報の伝達と認知効果に着目し、情報に対する人の認知と働きについて考えてみました。次回は「客観(形式)と主観(実質)」をテーマに、知るという行為に対する人の思いの大切さなどについて、考えてみたいと思います。(次回は、2014年1月13日掲載予定)


「メディアの客観報道と事実」  大谷智史

メディア

今回は情報の質に着目し、
 ・客観的な情報(材料)の抽出
 ・事象や事実が表現できる範囲
を考えてみたいと思います。

そもそもその情報によって判断すると考えるのではなく、あくまでも判断するのは常に自分であり、情報は単なる材料である。このように考えた際に、重要となるのはその情報の事実認識ではないかと考えています。思考論理の基礎となるのは正確性であり、事実を記録し描写する、そして伝えるの3つの過程を踏まえた言語表現が必要となります。

それでは、発生した事象についての客観的な事実とは、その材料である情報のなかから結果(事象)を正しく抽出するためには、どのような点に留意すべきなのでしょうか。そして、事象や事実が示すものとはどのようなことでしょうか。

客観報道と事実

日本国外で事故や災害が発生した際に、「日本大使館によると、救助された人や死者の中に日本人は含まれていません」などと、メディアから報道されることがあります。小学生の頃にこの報道の内容が気になって、母親に質問したことがありました。

私:「なぜ、日本人はって、日本人だけを特別扱いするの?」
母:「日本の人を相手に報道してるから、優先して伝えてくれているのよ」
私:「人の命は平等なのに、日本人だけを特別扱いするのはおかしいよね」
母:「そうだね、そうかもしれないね」

このようなメディアの報道はよく耳にする表現であり、特に問題のないようにも感じられます。しかし、子ども心にも "日本人は" と強調している理由が、とても不明瞭に感じたことを思い出します。

日本国内で報道していることから、日本人が興味を示し優先すべきことを考えて、このように報道しているのでしょう。しかし、日本国内にも日本人以外の方が生活し安否を気遣う人もいる、とは考えないのでしょうか。すべての人の考えや気持ちをくみとることができないとしたら、優先順位であり数の論理から、そのように定義することがより良い選択と考えられているのでしょう。

相手が何を知りたくて、どのようなことを気にしているのだろうか。そのようなことを突き詰めていくと、客観報道の定義はとても曖昧になります。

事実のなかからどの場面の材料を切り出して伝達するかによって、事実に対する重みや原因などが湾曲されることもあります。人の興味を切り出すことが報道としての優先度とすれば、ある特定の視野や視点にそった事実や大衆の興味であり、公益的な公平性を欠くことでもあると考えられます。

不足した情報から得られた事実、ある特定の部分や興味によって切り出した事実や表面的な事象では、十分条件であっても必要条件とはなりません。報道の客観性を追求するならば、相手が何を求めているかではなく、純粋に最大限の事実または事象を伝達しようと考えるべきではないでしょうか。正しい結論を導くためには、最大限の正しい事実を収集することが必要なのです。

あくまでも事実は結果

それでは最大限の事実を収集することが、最大限の信ぴょう性を保障することなのでしょうか。客観的な事実とは常に局所的かつ表面的な事象であり、信ぴょう性とはあくまでもその情報の範囲内を担保するもの、ということを留意すべきです。

よって、最大限に事実を抽出できたとしても、その背景にある真理や問題の本質をひも解いたのではなく、あくまでも結果でありそこから思考する際の判断の根拠でしかない、ということを常に意識すべきではと思います。

それらの事実または事象を根拠に、その問題の本質をひも解くための適切な仮説をいかに思考することができるか、そしてその仮説に対する事実や事象を再び抽出して実証する。このような能力が問われていると思います。(2013年11月5日)

§今回は情報の質に着目し、客観的な事実の抽出、事実の表現範囲について考えてみました。次回は「情報の伝達と認知」をテーマに、情報に対する人の認知と働きについて、考えてみたいと思います。(次回は、2013年12月2日掲載予定)


「ソーシャルメディア」  大谷智史

SNS

マスメディア(新聞、テレビ、ラジオなど)は、「特定少数の発信者から、一方的かつ不特定多数に向けて」の情報伝達手段です。情報内容は一方的な解釈による偏った報道や事実誤認とならないように、各メディアの企業倫理に基づいた倫理綱領や第三者機関による倫理基本綱領などにより発信されています。

ソーシャルメディアは、「個人による多数の発信者から、双方向かつ不特定多数に向けて」の情報伝達手段です。従来のマスメディアとは異なり、一般的な大意を鵜呑み(うのみ)にするのではなく、より個人が発信する生の声を耳にし、自分自身が判断したいとの欲求の現れではと思います。

そもそもそのようなコミュニティーはさまざまな形態で自然的に発生して形成されるものであり、井戸端会議、女子会、ママ友の会などが良い例だと思います。自分の価値観や関心ごとを通じて、同じ不満や悩みなどの感情を共有したい、そんな目的を実現するための広義の「広場」を提供しているのが、SNSに見られるサービスだと思います。

情報の信ぴょう性

ソーシャルメディアの危険性として必ず議論される点は、その情報の信ぴょう性であり、よって判断力が重要であると誰しもが口にします。本当にそうでしょうか。多少の違和感を抱くこともあり、自分なりに考察してみました。

まず情報伝達の容易性とリアル性を高めた媒介から、信ぴょう性のある情報が確実に提供されると考えること自体がナンセンスであり、そんな程度の情報との認識と理解が必要です。

ここで、友人たちが数人で伝言ゲームをしたところ、最後の友人には伝えたかった「象」が、「キリン」と伝達された笑い話があります。そのゲームをした友人は「動物、大きい、長い」と伝えていた。それを聞いた友人は、動物で長いのは鼻ではなく首だと思ったので、キリンと判断したのだと。

着目すべき点は全ての人が信頼できる人物であり、真剣に正確に伝えようとしていた事実です。誤った情報を伝えようとは思っていなくても、自分の意思に反して正確には伝わらないことがある、という事実を理解すべきです。

このような事象は、発信者または受け手側の価値観や興味といった対象のフォーカスによる個人の「差」が、このような状況を生むのだと考えています。なぜ「鼻」と一言付け加えてくれなかったのか、と考えること自体が愚問です。このような個人差がある限りは、仕方のないことであり回避することはできません。

よって、判断する力というよりも、それらが混入していることを前提に、それらからの情報を利用する。そして、それらを上手に利用して付き合っていくことが、大切ではないかと考えます。

重要なのは向き合い方

そもそもその情報によって判断すると考えるのではなく、あくまでも判断するのは常に自分であり、その情報は単なる材料と考える、ということです。その情報ソースが、マスメディアかソーシャルメディアであるかは、問題ではありません。

ちなみに信頼している上司から、「この仕事は、まず作業項目と課題を抽出して欲しい」と指示されたとします。そして、「抽出の際は、この書式(テンプレート)を利用すると良いよ」といわれたとします。この有益な情報である書式(テンプレート)を利用する方法は、広義のソーシャルメディアと考えていますが、みなさんはどのように思われますか。

信頼できる上司からの情報だから信ぴょう性があるのでしょうか。自分の判断というよりも、問題や事象に対する自分自身の姿勢や材料との向き合い方が、問われているのではと思います。(2013年10月7日)

§今回はメディアなど情報に対する、向き合い方を考えてみました。次回は「メディアの客観報道と事実」をテーマに、メディアなど情報の質について、考えてみたいと思います。(次回は、2013年11月5日掲載予定)


「思考が大切な理由(わけ)」  大谷智史

思考する

人を殺(あや)めてはいけない。このことを知らない、あるいは理解していない人間は少ないでしょう。それでは殺人罪が刑法の何条で定められているのかを記憶していたり、どのような罰則を定めているのかを正しく理解している人はどの程度いるのでしょうか。

(殺人罪)刑法199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する

この罰則そのものは情報であり知識です。この行動に対する抑制は、人間の理性によって思考した結果にしたがって、ある一定の制御をするからです。法や規則などのルールに縛られているからでも、情報であり知識によって行動が制御されているからではありません。

知識から思考を生む

人は仕事や生活の中で、自分は考えていると思い込んでいます。情報を集めて分析や加工はしていても(知識にしていても)、自らの頭で思考している人は少ないものです。何のために何を優先すべきなのかの基準や前提条件を定義せずに、過去の習慣、価値観や成功事例をそのまま複写しています。実際には多くの人は、仕事や生活の大半を、知識と思考の境界線を不透明にしたまま、知識によって行動を制御していることが多いのです。

「人を殺(あや)めては家族や友人が悲しみます。ましてや情状酌量の余地がないと判断されれば、極刑になることもあります」これは客観的な事実である知識を並べているだけで、自らの考えや意見は1つもないことがわかります。「極刑を覚悟してまでもそうしたいのならば、残念ですがそれもひとつの選択です」簡単ですが、これは自らの思考が生み出した意見です。最愛の娘を亡くされた両親の感情と知識を合わせることで、このような簡単な意見を思考から生み出すことができます。

思考とは知識を並べ立てることではなく、ある事実や知識をもとに意見や結論を導き出すことであり、考えることです。それには知識に対して「なぜ、どうして?」と疑問を持ち、自分に繰り返し質問する。そして「なぜならば、」と、その理由となる自らが思考した意見を述べる。このような思考する癖を身につけること、そして続けることが大切です。

思考が価値を生む

情報を集めてデータベースにすれば、とても利便性の高い知識データベースとなります。しかし情報が比較的簡単に手に入るネット社会(人のつながりも含めた広義な情報ネットワーク社会)では、価値を生む情報源とはなっても、情報または知識そのものの価値は低くなっていると考えます。

日本人ばかりで、興味や関心も同じ方向性の人々が集まり、地元や親元から通っては均質な人脈しか築けない日本の学生。国籍や興味、関心の多様な人々が集まり、寮生活やホームステイを通じて多様な人脈が築ける海外の学生。みんなが同じ方向を目指すことが良しとされる。褒められること、認められることや正しいことが求められ、失敗を恐れ主張することに躊躇(ちゅうちょ)する。数の論理によって答えが誘導され、多数派(マジョリティ)がはびこる。日本には、そんな画一性を求める傾向や社会偏重が潜在的にあります。

もっと人それぞれの考えや意見、価値観が尊重されて良いのではと感じています。そんな多様性(ダイバーシティ)が積極的に尊重される成熟した豊かな組織または社会には、個人の意見や考えに基づいた自立性の高い行動が必要となります。画一化され大量に生産する時代から、多様化された個性のある商品が受け入れられる時代となり、思考する能力がこれからの価値や付加価値を生む社会となります。

その人の価値とは人生を経験または体験した年数、情報量や知識の多さではなく、その人の考え方や哲学であり、その魅力がその人自身の価値を生むのです。頭が良いだけでは尊敬はされず、感性の領域が付加価値となり、感覚(センス)を高めることが一般化(コモディティ化)を回避するのです。変革(イノベーション)は不確実性のなかに、少数派(マイノリティ)の思考によって生まれる。 (2013年3月4日)


「言語力」  大谷智史

考える

言語力とは、コミュニケーションのために言語を運用する(話す、聞く、読む、書く、考える)ために必要な、個人に内在する能力のことです。

いま教育や企業などの現場では、「作文に話し言葉をそのまま書く中学生」、「面接で想定外の質問をされると答えられない大学生」、「営業報告書や会議の議事録がまともに書けない若手社員」が増えています。

仕事などでは、本来の目的を伝えても要点がつかめずに的外れのことを考えたり話し出す。自分が何を考え何をしたいのかを、相手に正しく伝えることができない。皆さんの職場でも、このように感じた経験があるのではないでしょうか。

ドイツの母国語教育では、日本と同様に「話す、聞く、読む、書く」のカリキュラムの他に

・要点を聞き取る力を養うために、物語を聞き自分の力で再生する訓練
・視点を変えた時に、何が認識でき認識できないかなどを考えさせる訓練
・レポートや議事録の書き方や小論文の書き方、発表で正しく説明する訓練

などの「考える」教育が重要視され、古くから取り入れられています。

論理的思考を単純化すると「判断と根拠」(考え)、「原因と結果」(事象)に分けて考えることができます。思考や論理の基礎となるのは正確性であり、事実を記録する、描写する、報告するとの言語表現法を身に付ける。さらに、「思い(感情や気持ち)を述べる」と「考え(判断と根拠)を説明する」は相違することであると理解し、区別することが必要です。

日本ではこの「考える」教育が不足しているのではと考えています。

「暗黙の了解」、「言わなくても分かってくれるはず」などの表現方法は、文化、言語、価値観などが多様化した現代社会においては通用しないでしょう。イタリア料理店チェーンのサイゼリヤを飛躍的に成長させた正垣泰彦社長の「1を聞いて10を知るではなく、1を聞いて10の理由を考える」、私が好きな言葉のひとつです。

文部科学省は2006年から2007年にかけて、教育関係者による言語力育成協力者会議を計8回実施するとともに、2007年10月に財団法人 文字・活字文化推進機構を設立し、昨年(2009年)10月には「言語力検定」を実施して、全国1万人の学生などが参加しています。(2010年5月6日)


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